こんにちは
Sayme(せいみー) です。
早速ですが、前回までのお話はこちら ↓
Saymeの社会人3年目から1500万円貯蓄までのお金の歴史Part2
ニュージーランドで1軒目の家を購入
1軒目の持ち家 人生で初めての家は
街にも近い場所でしたが
地域的には若干治安が悪く、
アジア人はあまり住んでいませんでした。
しかし、Cityには近く、仕事場へも車で5,6分で行くことができ
便利でした。
その頃、留学生の男の子がよく遊びに来ていて、
自分の住んでいるアパートにしょっちゅう遊びにやってくる近所のワンコが
すっかり懐いて住み着いてしまい、1か月ほど前に譲ってもらったとのこと。
(譲ってもらったというより、何度もその子のところへ行くので
もう、面倒をみてくれ・・と(笑))
でもその子は留学生です。
長期休暇で日本に帰っている間の面倒は見ることができないし、
できればこの先ずっと、Sayme家で飼って欲しいと言われて、
生後半年のシェパード(牧羊犬のワンコ)を
預かることになりました。
名前を 蘭丸とつけていたので、そのまま、らんまる君です。
ぜっかく海外で暮らすなら、
いつか、大きな家で大きなワンコを
しかも、家の中で飼う・・という最初の夢がかないました。(笑)
貯金としてではないですが、
購入した家は円に直すと約800万円ほど。
頭金は300万円ほどですが、500万円のローンがおり、
アパートを借りているときとさほど変わらない返済でしたので、
資産として800万円を手にした、と言えばそうなりますね。
そして、労働ビザが切れる頃、申請していた永住権が無事取得できたので、
Saymeは観光業へとシフトすることができました。
そこからは(晴れて(笑))夫婦で別々な仕事をすることになりました。
まだ20代でしたので、飛行機に乗って同行するガイドさんの
仕事もバンバン受けることができ、子供もいなかったので、
貯金を増やすことができました。
初めのうちはガイド会社に所属していましたが
フリーランスになって、他社のお仕事も頂いたりで人脈も増え、
そこで、大きな旅行会社の支店長に声をかけていただき、
メインの旅行会社でオぺーレーターの仕事もさせてもらえることになりました。
1年ほどして支店長が日本に帰国が決まったため、
そこの会社でそのままそこの正社員として所属しないかと社長さんが
言ってくださった時、
なんと、そのオファーをお断りしました。
理由は
ただ、大きなツアーで団体さんのお世話をする仕事より、
個人旅行で来たり、ワーキングホリデーや学生ビザで来たりする
日本人のためのインフォメーションセンターがまだ無く、
そういう会社を作ろうと思ったのです。
例えば、長期滞在するために知り合いもいないのにいきなり来て、
そこで、短期で家具付きのアパートに滞在して、途中途中で働きながら旅行がしたい、
という人が
契約書をよく見ずに普通のアパートにサインをしてしまって、
本人は2か月くらいの予定だったけれど、
実は1年以上住まなければいけないような内容で、
契約違反で罰金を払わされそうになったり・・などの日本人が
めちゃくちゃ増えてきた頃だったのです。
大家さんもたまりませんよね。
今は、すっかり名司会者になった有吉くん・・
猿岩石というコンビで、電波少年という番組で、
世界中をヒッチハイクするという企画が流行った直後のことです。
テレビの中ではヒッチハイクでどうにかなるだろう・・でやっていたことが
実はけっこう海外では迷惑なことだったのですよ。
英語が話せないけど、どうにかなるだろう・・
誰かが手を差し伸べてくれるはず・・
確かに、困っていたら手は貸しますが、
あまりにもいい加減な人は現地の人に嫌われます。
それが日本人で、長く住むつもりで移住して
苦労していたSaymeや他の日本人たちに、同じ印象を持たれると
すごく生活もしにくいですし、
その旅行者たちにも、いい思い出を持って帰国してもらいたい。
という気持ちがありました。
会社を設立
会社の登記をする際に、仕事の内容に幅を持たせるため、
旅行業だけではなく、輸出入、語学留学のサポート、
ホームステイ斡旋、海外結婚式の企画・・・など、日本人を対象にした
あらゆることを登録しました。
最初のうちはフリーランスのガイド業を
自分の会社として、受けながら、その収入で
オフィスを借りるための家賃や、オフィス家具の購入、
日本の旅行会社や留学会社などに営業をかけるための帰国旅費など
当面の自分のお給料はおそらく3か月くらいは出ないだろうと踏んで
それまでの貯金を切り崩すつもりでした。
そして、ABロードなどの求人広告を日本から送ってもらい、
旅行、観光業関係や留学関係の会社に
片っ端から丸を付けて、国際電話で営業のアポを取り、
帰国し、1週間ほどで東京を中心に回り
アポをいくつかもらって戻り、
お客さんを送ってもらうと同時に、既に到着している
行き当たりばったりの少数旅行者のためのインフォメーションセンターを
オープンさせたのでした。
日本で飛び回る充実の営業(これ、あってるかも・・)
日本に帰国するときは拠点を京都の叔母の家にしていたので
そこから東京へ行ったり、大阪へ行ったり
名古屋へ行ったりすることができました。
永住権を持っている人は日本に帰国すると外国人扱いで
レイルウェイパスという新幹線の乗り放題パスをもらうことができ、
かなり格安で移動することができます。
時間さえあれば、博多駅までラーメンを食べに行って、夕方に大阪の友人と会って
晩御飯にたこ焼きを食べることだってできるのです。
そんな感じで飛び回って営業をしていると
とても充実して楽しい日々でした。
何度目かの帰国の時、たまたま空港での手続きを忘れて、
宅配業者の手配が遅れてしまい、
約束していた東京の営業先に持って行く予定だった資料やお土産などを
持っていけなくなってしまい、訪問を月曜日にする予定を
翌日(火曜日)にずらしてもらったことがありました。
京都の叔母の家で朝、テレビを見ていたら
恐ろしい光景が飛び込んできました。
まさに、その時に東京で乗る予定だった時間帯の駅の路上で
救急車や人が倒れているような映像が・・
それが地下鉄サリン事件でした。
地下鉄サリン事件とは
1995年,東京都心を走る地下鉄の車内に毒ガスのサリンがまかれ,13人が死亡,6000人あまりが重軽症を負った事件。1995年3月20日月曜日午前8時過ぎ,帝都高速度交通営団 (現東京地下鉄) 日比谷線,丸ノ内線,千代田線の計 5車両で刺激臭のガスが発生,通勤客や駅員らが呼吸困難や視覚異常などを訴え,6人が死亡,10人あまりが重体となり,数千人が病院で手当てを受けた。死者は最終的に 13人に上り,重軽症者も 6000人をこえた。警視庁は 3月20日,この有毒ガスを猛毒の神経ガス,サリンと断定,陸上自衛隊は除染のため化学防護部隊を出動させた。3月22日,警視庁は事件をオウム真理教の組織的犯行とみて,山梨県上九一色村の教団施設などを強制捜査,多量の化学薬品を押収し,1995年5月16日に麻原彰晃 (松本智津夫) 代表を逮捕した。
今回は、ちょっと長くなりました。
時代背景も把握していただくと
流れがわかりやすいかもしれないと思い、たくさん書きましたので、
次回へ続けます。
この時点で
大体ですが 資産800万円 + 銀行口座200万円ほど。
しかし、まだまだ会社は立ち上げたばかりでしたので、
銀行口座のお金は会社の足しにしたり、出張旅費として立替などが続きます。